坐禅は心の句読点

禅の世界を、細川さんならではの言葉でお話いただきました。第2回目(全4回)も、私たちの日常にも通じる「なるほど!」がいっぱいです。

細川 晋輔

臨済宗妙心寺派龍雲寺 第十二代住職 細川晋輔さん

HP:http://ryuun-ji.or.jp/
-Profile-
臨済宗妙心寺派龍雲寺第十二代住職。
1979年、東京世田谷生まれ。2002年佛教大学人文学部仏教学科卒業後、京都にある妙心寺専門道場にて9年間の禅修行。花園大学大学院文学研究科仏教学専攻修士課程修了。妙心寺派布教師。NHK大河ドラマ「おんな城主直虎」禅宗指導。

今の仕事の責務ってなんですか?

「伝統を守る」ですかね。僕はバトンをつなぐことを意識していて、自分で完走をするつもりはありません。完走もできないと思っています。受け継いだバトンを次に託すって思うと、この期間全力疾走できる気がするし、自分でゴールしようと思うと不安なんですけれども、誰かに、自分の思いを託せるということが、2500年続いた仏教には大切なのかなって思うんですよね。

それって普通の人にも通じますよね。

だと思います。みんな自分でゴールしようと思うから、いろいろ悩んでしまうと思うけど、自分にできないところは次に任せてしまえばいい。自分のできるところを、自分の区間をしっかりと走りきるところに意識を持っていけば、もっと楽に人生を生きれるんじゃないかな。

非常に勉強になります。ありがとうございます。

世界にどういう影響を与えたいとかありますか?

よく聞かれるんですけど、私は世界に全く興味がないんです。
世界に評価されるって大事なことだと思いますか?

私ですか?私はどちらかというとあまり広いところではなく、自分の周りと、基本は日本ですね。

僕もそうなんですよ。自分の周りと基本は日本です。ですが、今さらですが英語も勉強しています。それは海外のお客様が多いからです。坐禅にくる海外のお客様をただの体験で終わらせたくないんですよね。やっぱり、文化として定着したいという思いからです。
「世界にうってでて、禅を広めたい!」というのは今のところ全くありません。誰か一人でも二人でも禅に触れている心を少しでも広げられたらと思います。

坐禅に対する強い思い入れを感じますね

坐禅が皆さんにとって心の句読点であってほしいというのが僕のテーマなんです。
文章が人生だとすると、効果的に点と丸を打っていく。点と丸自体は並んでいても何の意味もない、でも効果的に入れると、文章が引き締まったり、読みやすくなったりする。
一見無意味に思える坐禅、点と丸を打つことによって、皆さんの人生がより引き締まって豊かなものになるといいなという思いです。
塩も、がんがん入れると体に悪い、適度な塩分は体には必要不可欠であり、美味しくもなる。その辺のバランスを大切に、塩辛い料理にならないようにする。

非常にわかりやすいです。その句読点ってとても素敵な表現ですね。どうやって思いついたのですか?

(笑)句読点は、取材のときに何かいい表現がないかな~と思いました。
点と丸ってライターさんとかは絶妙に使うじゃないですか。僕も文章作ってるときに点と丸ってすごい深いなあ~と思って。点と丸っていらないですけど、無いとスムーズに読めない。
一枚のフィルムで何をとるか、それもこういう取材的なところからですね。
「みなさん、写真を1枚しかとれませんよ」とすると、皆さん人生を大切にするんじゃないかなと。100枚でも200枚でも撮れると思っちゃうと、どうしても心が加わらなくなっちゃう。逆に撮れる枚数が決まっていたら、起承転結をつけて、ここでは3枚しか使えない。ってね。
絶対いい所で撮ろうという、この1枚に対する思いが深まり、大切にする。
その気持ちが大切だと思うんです。
臨済宗では一日一日その日暮らしではなくて、一日暮らしという言い方を大事にしてるんです。

一日暮らし?

はい、その日暮らしっていうと、「夜越しの銭は持たねえ、全部使っちまえ~っ」て感じにとりがちですが、そうじゃなくて、今、将来の投資ももちろんですが、それも踏まえた一日暮らしでありたいなと思います。

私も、今の積み重ねでしか将来はない、あんまり未来のことを言ってもしょうがないのかなと思っています。

そうなんです。
過去と今と未来、変えれるのはどこだと思います?
今だけですよね。その考えはとっても大事で、未来が変えられると思ったら大間違いで、未来は変えられない。変えるんだったら今、やるんだったら今、変えた今の蓄積が未来につながっていくだけですよ。

変えられるのは今だけですが、未来を信じていくということはとても大事なことです。
「わからない」ってことはとても素敵なことだと思います。未来がわかりきってたら、面白くないですよね。
今、天気予報も下手すると1時間後までわかるし、しかも結構外れないんですよ。
これってドラマがなくて、夏になると隣の小学校では運動会の練習を毎日するんですが、「あした運動会だけど、雨の確立40%」となったとしたら、ぼくらの時代だと朝起きてふってない可能性を信じてて、みんな照る照る坊主作ってぶら下げてたんですけど、今、雨の予報がでるとほぼ雨で、そういう意味ではわからないという良さがだんだんなくなってきたなと思います。

わからないって夢がいっぱいありますよね。

来世、地獄、天国も正直わからないんですけれども、ないって言い切るんじゃなくて、地獄に行かないと信じて生きていく、極楽があると信じて生きていく、、、、
例えば、亡くなった人に会えるかって聞かれたら、会えないかもしれないけれど、会えると信じて生きていくというのが宗教のやさしさ、わからないというのが宗教のやさしさなんだと僕らは思っています。
何でも論文で論拠があって根拠がなくちゃいけないっていう世界は息苦しいので、「わかんない」っていうのが素敵に思えるやさしさっていうのもそろそろ必要な時期なのかなと思います。

なんか、すべてが深いですね。
今一番興味のあることはなんですか?

ん~なんだろな~「伝える」ってことですかね。

何をですか?

僕は仏教です。人に表現を伝えていくってすごく深くて、特に今私は大河ドラマの現場に行ってるんですけど、その現場の「伝えたい感」が半端ないんです。
例えば台本だけでも十分に面白いのに、そこから100人くらいのスタッフや俳優さんの全ての力でその脚本が3D化していくのですが、その先にあるのは「伝えたい」っていう思いだけなんですよね。それがほんとに面白いんです。
ある俳優さんは、極論、台詞のない芝居がしたいとおっしゃっていて、だから目を見ただけで伝わるっていうのが僕らにとってのゴールだと。すごいこと言うなーと思いました。
不立文字(ふりゅうもんじ)という、お釈迦様の教えを伝えるために言葉では言い表せないという教えがあるのですが、その言葉では伝えられないものをいかに伝えていくかというのが今興味のあることです。

伝えたいという思いは、色々な分野で活躍されてる方に共通しているんでしょうね。

言葉で伝えられないものをどうやって表現していくかっていうのがライフワークなのかなと思います。
それが、点とか丸であり、行間っていうところになってきて、同じ文章でも文章から伝わる間っていう行間を伝えるというのが、今僕がこだわっているところです。
まあ結構早口でしゃべっちゃうんですけれどもね(笑)こうやってしゃべって伝えるときもあれば、ただうなづいていることで伝えるところも大事にしたいですね。それが、人と会うことへのこだわりにつながってるのですが。
だからこうやって人と会うということは、本当に学ぶことが多いですよ。

そういっていただけたら嬉しいです。

 

(撮影協力:本多佳子)